英語一強時代

昨日、図書館でたまたま中央公論8月号を見ていたら、「英語一強時代日本語は生き残るか」なる特集が組まれていた。2020年から英語が小学校5年の正式な教科となることに関連して、「日本が亡びるとき」なる本を書いた作家の木村美苗氏は言語の植民地化を懸念している。また、墨田英一郎氏は「自動翻訳が拓く未来」と題して「英語を勉強しなくてもいい時代がやってくる」と述べていた。いずれの論も大変違和感を覚える内容である。
言語はあくまでもコミュニケーションの手段である。英語が広く世界的な準公用語として用いられようと日本語が否定されるわけではないし、英語表現が思想信条を左右するわけでもない。また今後技術的進歩で機械翻訳のレベルが向上したとしても、様々な微妙な感情表現やニュアンスを適切に選択できるとも思えない。ブロークンであっても話すときの表情やら話し方で意を伝えられることも多い。
小学生からの英語教育を実施することは、日本語か英語かの二者択一を求めているわけではない。英語が話せるということと、何を伝えたいのかとは別であり、日本文学なり文化なりを学ばなくても良いということではない。
パソコンの普及でアナログ人間は時代に取り残されていくように、英語は意思疎通の手段として重要な役割を演じる時代だと言える。日本が亡びないためにも、バイリンガルな素養を身に着けるべきであろう。
今日の一句「コガネムシ どこが黄金か 古だたみ」