高齢化社会のあるべき姿

暑い暑いとフーフー言っていたのが、もう9月だ。9月に入った途端に雨模様、庭木には嬉しい季節の変わり目ではある。
山本七平氏の「時評にっぽん人」を読み終えた。昔、神保町で買ってきて「積読」になっていた古本である。1981年刊行だから30年前の時評と言う事になるが、話題はすでに終わってしまった昔話ばかりではない。「高齢化社会のあるべき姿」の項で『基本的方向づけなしに「福祉」と称して「バラマキ」をやるのでは、税金の浪費』だと山本氏は指摘されているが、何ら解決されておらず、そのまま先送りされて今に至っている。
30年前の山本氏の考察と提言には、まだ耳を傾けるべき点があるので紹介したい。
人間を65歳までが生産人間とし、それを過ぎると非生産人間として生産的社会から排除するから、高齢者の扶養を強いられる若者に負担が行く。生産的社会から排除された高齢者は生きる意欲を失い、少しも幸福ではない。その結果、莫大なコストをかけながら、若い人も老人も不満を持つ事になる。ではどうすればよいか。
多くの評論家は問題点の指摘と将来への危惧でお終いだが、山本氏は、衰えた肉体はロボットを活用し、高齢者用の工場を作り「生産」という基礎を作るよう具体的な提案している。老人問題は厚生省ではなく通産省の取り組みがカギとなるとの指摘だ。
皮肉なことに厚生省は、厚生労働省と名前は変わったが、残念ながら状況は30年前とあまり変わっていない。政治の貧困か、官僚の怠慢か、はたまた我々庶民のレベルがこの程度だという事であろうか。責任がどうであれ、この事のツケは確実に我々に跳ね返ってくる。
今日の一句「花房の 雨の湿りに 頭垂れ 恵みの雨と 百日紅の花」