背信の科学者たち

このタイトルで内橋克人が6月2日の東京新聞のコラムに書いていた。このコラムで引用されているニューヨークタイムズの記者の本には、ガリレオニュートン背信の科学者の例として挙げられている。要は、いかに科学が欺瞞に満ちたものかを内橋氏は強調したいようだ。そして、このコラムでは「日本の原発安全神話の脚本家たち」はどうかと問うている。彼の言う脚本家とは、文章の流れからすれば「原発は安全だとわれわれをだました科学者」であろう。「嘘をつく」「データを捏造する」といった背信の科学者もいるであろうが、これらは犯罪行為であり何も科学に限った事でもない。
6月10日の東京新聞に、名古屋大学の森郁恵教授が「疑う尊さ」と題して「科学者は疑似科学をうのみにすることはありえず、科学は疑うことから始まる」と述べている。従って脚本家とは、科学者ではなく、得られた科学的知見を都合のいいように解釈し、利用した人達であろう。そのお先棒を担いでいるのはメディアであり、ジャーナリストである。
「科学的という言葉の前に人々はひれ伏す」ほど、我々は単純ではないし、「科学が最後の審判者のごとく君臨している」とも思えない。むしろ科学をメディアやジャーナリストに置き換えた方が、現状を言い当てているように思える。
今日の一句「青嵐に ひれ伏す民は 何を見る」